Garbage Collection


2013-01-27

§ 『水からの伝言』の話 (Reprise)

随分前に話題になってさんざん批判されていたから下火になったのかと思っていたけれど、どうやらそうでもないらしい。正直またかという感じだけれど、何度でも書いておこう(内容は昔書いたものとほとんど同じ。元の文章はリンクや内容が少し古くなっているので書き直した)。

江本勝氏の『水からの伝言』というのはこういう話。

   水に「ありがとう」などの良い言葉をかけて凍らせると美しい結晶を作り、「ばかやろう」などの悪い言葉をかけると醜い結晶を作る。人の体の大半は水分だから、人に対して悪い言葉を使っちゃいけない。

僕はこの考え方が嫌いだ。科学的にはどう贔屓目に見てもナンセンスだし、御伽噺としてもあまり面白くない。でも、それ以上に道徳的な訓話として最低の部類に入ると思う。

これは「正しいものは美しく、間違っているものは醜い」という話だ。ここでは、正しさと美しさが何の批判もなく結び付けられている。僕たちはこれまでこの考え方の下でろくな事をして来なかった。こういう価値観の下で苦しんだり、悲しい思いをしてきた人の話を僕たちは沢山知っている。

かつて「我々は美しく、正しく、優れている」と言いながら、皆に不幸を配って歩いた人たちがいた。あるいは、生れた場所や、肌の色や、話す言葉の美しさが、その人の正しさを決めていた時代があった。そしてそういう人たちや考えかたを心から歓迎した人たちが沢山いた。そんなに昔の話じゃない。彼らは僕らより愚かだったんだろうか?僕らはもうそういう言葉を信じないですむほどに賢くなったんだろうか?僕はそうは思わない。だって、未だにテレビや新聞はそういうニュースでいっぱいじゃないか。

ちょっと大げさかな?そうかもしれない。そんなに目くじらを立てるようなことじゃなくて、笑って済ませればいいのかもしれない。いいじゃないか、ただのお話なんだから。言っていることは間違っちゃいないんだし、「正しいものは美しい」なんて誰も本気で信じていないよ。本当にそうなのかな?でも、あの話を賞賛する声を聞くたびに、僕は少し不安になる。

欠けた所が無く、均整が取れ、純粋で、汚れがないものを美しいと評するのは構わない。そういう美しさが人の心を揺さぶる事は山ほどある。でも、それを正しさの判断基準にするべきじゃない。「正しいものは美しい」という言葉は「間違っているものは醜い」という言葉の上に成り立っている。そしてこれはあまりにたやすく「美しいものは正しい」「醜いものは間違っている」という言葉に変わってしまう。

確かに、美しいものが正しく見えることはあるし、正しいものが美しく見えることもある。でも、それは正しいから美しいんじゃないし、美しいから正しいんじゃない。その二つに因果関係を求めるのはとても危険だ。これは科学的かどうかの問題じゃない。水だろうが科学だろうが神さまだろうが、こういう言葉を聞いたら立ち止まってその意味をよく考えた方がいい。

僕たちの「正しさ」や「美しさ」の判断基準はとても危ういバランスの上に成り立っている。それは、とても弱く、曖昧で、ちょっとしたことですぐに変わる。それは決して悪いことばかりじゃない。僕らは新しい価値観に出会うたびに戸惑い、考え、悩み、そしてそこから新しい正しさや美しさを見つけてきた。でも、だからこそ、正しさを美しさの根拠にすべきじゃないし、まして美しさを正しさの根拠にするべきじゃない。価値の判断を他の誰かに委ねてはいけない。それはこれまで本当に沢山の人を不幸にしてきたんだ。

水は答えなんか知らない。水に「ありがとう」という言葉の正しさを問うぐらいなら、世界一美しい「ばかやろう」を自分で探しにいく方がずっといいよ。