2003-06-06
§ [usability] 文章を書くための技術(追記)
こんなことを偉そうに書けるほど、私の文章が分かりやすいとは思えませんが・・・、まあ自戒も込めてということで。
わかりやすさは、ただの表現技術の問題ではないのだ。(山形浩生)
あー、全部ここに書いてあった。引っ込めようかな・・・。
なんだか、文章の型の話があちこちで引用されているみたいだけれど、いいたかったことは、「型に入れて書けばオッケー」という話じゃなくて、「型にはめるためには、実はかなり高度なことをやらなきゃいけない」という話のほうだ。その「高度なこと」っていうのが、「読んでいる人の期待に応えること」。二回目に書いたように、読んでいる人の期待に応えることができれば、型なんかにはまってなくても説得力をもたせることができる。逆にいえば、型にはめたって、その文章が読んでる人の期待に応えていなければ、ちっとも分かりやすくなんかならない。
これは、山形氏も述べていることだけれど、「型」は嵌めるためのものではなく、使うためのものだ。ユーザーの期待に応えるためのフレームとしては「型」も悪くないツールだと思う。でも型にはめれば分かりやすくなるかといえば、絶対にそうじゃない。「りんごは、赤くて丸いから、おいしい」、この文章には全く説得力が無い。だって、これっぽっちも理由になっていない。要するにこれは型に沿って書かれていない。
僕の思う「文章を書くための技術」というのは、「型にそって書くこと」よりも、むしろ「型に沿って書くために考えなければいけないこと」のほうだ。正しく使うなら、型は思考をドライブしてくれる。なぜなら、型が僕たちにある思考を要求するからだ。自分が一番伝えたいことは何か、誰に向かって伝えようとしているのか、そしてそれを伝えるためには何をしなくちゃいけないか。そういうことがちゃんと考えられていなければ、型に沿って文章を書くことはできない。
文章の型も武道や花道の型と全く同じ。型に沿って体を動かすと、自分の体のぶれや欠点があらわになるように、型に沿って考えると、自分の思考のぶれや曖昧さが見えてくる。そして、型の意味や型が要求しているものを理解せずに無自覚的に使っても全く意味が無いのも同じだと思う。「型破り」は型が表現していることをちゃんと組み入れた上で破るから意味がある(「守破離」やね)。
そして、僕は個人的に、その型が表現しているものの根幹にあるのは、「読み手の期待に応える」ことだと思っている。これは、面白いテーマを探そうとか、興味を引くような文言を使おうってことじゃない。前回書いたことだけれど、文章を読むときには、たいていの人が次にくる展開を「期待」しながら読み進めていく。たとえば、"しかし"、とかいてあれば、前の言葉を否定する内容が来るはずだ。読み手は、おおっ、と思いながら身を乗り出す。そこで「実はね・・・」と切り出す。あるいは、あるトピックを持ち出すならば、当然押さえておくべき事項がある。僕が「期待に応える」と書いたのは、こういう読み手とのリアルタイムのやりとりのことだ。
上の山形氏の文章に書かれている「話すように書く」という感覚は凄く近いような気がする。ただ、これはそんなに簡単なことじゃない。きっと、山形氏は普段から人にものを説明するのが仕事(彼は本業がコンサルタント)だから、ちゃんと一番相手の聞きたいことを話すというトレーニングを積んでいるんだろう。でも、これはずいぶん想像力がいるし、その想像力を維持するために、ある種のテンションと自制心がいる。
「分かりやすく」という言葉は、「何を」と「誰に」が無いと全く意味をなさない。でも、これをちゃんと意識するのは、結構大変だ。彼の言うように「これを伝えたい」という強烈な欲求と内容がないと、文章はどんどん散漫なものになっていく。実は、一番大変なのは、文章を書いている間、その「これを伝えたい」という想いを維持することなんじゃないだろうか。
ああああ、この話題で書くたびに、すどーんと落ち込むなあ。こんなこと書いているけれど、自分じゃ全然やれちゃいないし・・・。文章書くのって本当に難しいよ。
§ [clip] Daily Clipping
科学雑誌、読んでますか?(slashdot.jp)
日経サイエンスと、ポピュラーサイエンスは読んでるが・・・。前者は専門的すぎて「面白み」に欠ける(つーか高いよ)。後者はかなりテクノロジー寄りだけど、いまでてるなかではおすすめかなあ。
でも、一般向け科学雑誌として一番優れているのは『子供の科学』だと思うぞ。いや、冗談抜きで。
と、昼休みに今月号のポピュラーサイエンスを読んでいて気付く。
ぐらぁ、GUIの生みの親「アラン・キー」ってだれだぁぁぁ。きー。
いつも思うんだけど、この雑誌、訳がいまいちなんだよなあ・・・。