水を飲んでも大丈夫?誰かにこう問われ、僕は一瞬迷い、大丈夫だよと答える。これぐらいなら大したことないよ。一瞬の躊躇を見抜いたのか、相手は怪訝そうな顔をする。
理由を一生懸命説明する。今伝えられているような放射線の量では滅多な事じゃガンにはならない。はっきり影響が出るような数字には全然足りない。不安そうな表情は消えない。彼らや彼女たちが聞きたいのは解説なんかじゃない。ただ安心したいだけだ。言葉は空しく虚空に消えていく。
本当に?
うん、大丈夫だよ。
少しだけ良心の呵責を覚える。僕はたぶん嘘をついている。
日本では約1/3の人がガンで亡くなる。「あなたは福島原発の放射線が原因で、ガンにかかって死ぬかもしれない」この予言は後半は1/3の確率で当たり、前半は決して証明できない。たとえば10万人が1mSvの放射線を浴びるとガンで亡くなる人が5人増える。残りの約3万人は別の原因でガンになって亡くなる。両者を見分ける方法は無い。低線量放射線の健康への影響というのはこういう形で出る。ちなみに、1mSvというのは通常一般の人が自然放射線以外に1年間に浴びていい放射線量にあたる。
僕はこの10万人に「あなたは将来、放射線が原因でガンになって亡くなるかもしれない」と吹聴して回ることが正しいことなのかどうかよくわからない。この宣告は事実だけれど、たぶんこれを聞く人々は違うメッセージを受け取るだろう。不幸にもガンにかかってしまった人たちは、自分のガンは原発が原因なのかと不安になるかもしれない。でもその不安が本当に正しいのは3万人のうち5人だけ。そしてその5人が誰なのかは誰にもわからない。
本来1mSvという数字から受け取るべきなのは「私のガンは原発が原因ではないだろう」というメッセージだ。純粋に数字だけ比べればこちらの方が圧倒的に正しい。なにしろ、これが当てはまらないのは3万人のうち5人だけ、99.98%は正しいのだから。でも実際にガンにかかってしまった人はそうは信じないだろう。わたしはその5人のうちの1人なのかもしれない、という恐怖はあまりにも大きい。あの時あの場所にいたからガンにかかったのではないか?Yesという答えは99.98%の嘘を含み、Noという答えは0.02%の嘘を含む。常識で考えれば、選ぶべき答えは間違いなく後者だ。でも人は前者を信じることを止められない。
不安?そりゃそうだ。こうやって理屈をこねている僕だって、99.98%の嘘を信じないでいられる自信なんてない。
実際には、100mSv以下の被曝は統計の誤差に埋もれて分からない。もしかしたら、100mSv以下では人間の自己修復機能が十分に働いて全く影響がないのかもしれない。そう考える学者もいる。誰も本当の答えを知らない。でもとりあえず判断をするにあたって、安全側に振って、どんなに低い放射線量でもガンの発生確率が上がるという前提で考えましょうという約束になっている。
100mSvで致死ガン発生率0.5%という数字と100mSv以下の被曝は健康に影響がないという言葉が両立してしまうのはこういう理由。これはどちらも正しい。0.5%の違いはガンの死亡率にはまったく影響を与えない。その程度の増減は最初から数字の中に織り込まれている。誤差の範囲というのはそういう意味だ。でもこれは、あなたが放射線の影響でガンで死ぬ可能性がゼロだという意味ではない。
ちょっと大げさな話。たとえば、バナナを1本食べると、バナナに含まれるカリウム40によって約0.1マイクロシーベルト被曝する(カリウム40はありとあらゆる食べ物に含まれているけれどバナナは少しだけ含有量が多い)。これは、あなたがバナナを一本食べるたびに0.0000005%ガンで死ぬ確率が高まるということを意味する。バナナを食べたことがない人というのはなかなかいない。だとすれば、少なくともガンで亡くなる人約200万人に1人はバナナの放射線が原因で亡くなっている計算になる。いや、これはいくらなんでもあまりに馬鹿げた計算だけれど、放射線によるガンの罹患率にしきい値がないという仮説に立つなら、こういう計算もできる。
ちなみに、カリウム40はあなたの体にも含まれている。カリウムは人の体を構成する必須元素であり、必然的にその放射性同位体であるカリウム40も一定の割合で体の中に含まれる。言ってみれば、あなたは6000ベクレルの放射能を持つ放射性物質だ。あなたが自分自身に与える放射線の影響は年間の放射線量に織り込み済みなのであまり関係ない。でも、もし誰かがあなたを食べたら、32μSvの被曝を受け、ガンで死ぬ確率が0.000002%ほど高まるはずだ。
いや、バナナのことは忘れよう。あなたをガジガジ齧る誰かのことを心配するのはやめよう。数字は随分小さいから、多少バナナを食べたところで健康には何の影響もない。たぶん、バナナの放射線で死ぬ前に、バナナの食べすぎで体を壊す方が先だ。
では、どこに線を引けばいいのだろう?1本当たり20ベクレルのカリウム40を含むバナナなら笑って済ませられる。でも、たとえば1リットル当たり300ベクレルのヨウ素131を含んだ水道水は笑えない(原子力災害時の摂取制限値)。この水道水を毎日1リットル1年飲み続けると3.2mSvの被曝になる。バナナを毎日50本も60本も食べる人はそうそういないけれど、人は毎日数リットルの水を口にする。数ヶ月ぐらいならどうってことは無いけれど、こういう水を何年、何十年と飲み続けるのはやめた方がいい(幸い今回、水道水はまだここまで汚染されていない)。
「安全」の閾値なら線を引くのは難しくない。統計上ガンの発生率が無視できる数字というのはある。たとえばさっき書いた100mSvという数字。致死ガン発生率0.5%。統計上はこれ位ならあなたがガンで死ぬ確率は変わらないといえる。でも、200人に1人というのは安心には程遠い。では、「安心」の閾値はどこに引けばいいだろう?
たとえば、喫煙はガンのリスクを倍にするといわれている。公衆衛生という観点から言えばとても無視できる数字じゃない。でも、それを知っていてもたばこを吸う人はいる。飛行機が墜落する確率は自動車事故に会う確率に比べれば無視できるほど小さいけれど、それでも飛行機での移動を避ける人はいる。両者を笑うのは簡単だけれど、それは何も解決しない。
でも、どこかに線を引かなくちゃいけない。たとえば100mSvの1/100。1mSv、0.005%、10万人のうちの5人。その程度なら放射線の影響で致死性のガンにかかるリスクは無視できるだろうか。それぐらいなら、大丈夫だといっていいだろうか...
そして僕は小さな嘘をつく。0.02%の嘘を。
僕は目の前にいる誰かに安心してほしいと思っている。僕は言葉を重ね、その結果、その人は自分でその線を引くことを止め、判断を僕に託した。僕はそのことを責めることはできない。それがその人の選択なのだから。
そして、僕はその人に言う。大丈夫、そんなに怯えなくていいよ。大丈夫、これくらいは大したことないよ。
この言葉にはほんの少しだけ嘘が混じっている。1mSvで0.02%。いや、ただ単に嘘と呼んでしまうにはあまりに希薄で、かといって知らないふりができるほど小さくはない何か。僕はこの感情とうまく折り合いをつける方法をまだ見つけられずにいる。
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(この文章は何らかの安全基準を提供する目的で書かれたものではありません。数値は国内基準値を参考に保守的な値を取っています。また、本来直線しきい値なし仮説は放射線防護を目的としたもので、バナナのカリウムによる被曝のような極めて低い線量の被害予測に適用することはできません)
辻本 忠、 草間 朋子 『放射線防護の基礎 第3版』 (日刊工業新聞社 2001)
緊急被ばく医療ポケットブック - 緊急被ばく医療研修 (放射線災害医療研究所)
放射線の確定的影響と確率的影響 (09-02-03-05) (原子力百科事典ATOMICA)
team nakagawa (東大病院放射線治療チーム)
Banana equivalent dose/バナナ等価線量 (Wikipedia)
2011.04.19 KASHIWAI, Isana