歪んでしまったぼくらの知識のために
誰もが「知識」にアクセスできることは、必ずしも"知の共有"にはつながらない。あれほどオフィスでもてはやされたKnowlidge Managementがこれっぽっちも役に立たなかったのにはやっぱり意味がある。あるいは、どんなに強力な検索エンジンを使ってもネットからはゴミ情報しか上がってこないのにもちゃんと理由があるはずなんだ。
知の共有というのはアクセシビリティの問題じゃなくて、その知識の枠組み(まあ、なんならスキーマといいかえたっていいけどね)を共有できるかどうかなんじゃないだろうか。これはどんなに緻密にタグ付けしたテーブルを切ってもデータベースには乗らない。当たり前といえば当たり前なんだけど、つい忘れるんだこれが。
「重要なのは倉庫のサイズではなくて錠前の数だ」といった人がいたけれど、今の状況は錠前の数が多すぎてどの鍵を選んでいいか分からない、という困った状態だ。
必要なのは知識の枠組みを伝えること、これはとっても難しい。自分がどういう文脈でその知識を得て、どういう文脈でそれを使ったか、それをちゃんと言語化できなくちゃいけない。しかも、その答は相手の枠組みに合わせて問われるたびに違ってくるはず。
いまのところ、こんなことができるデータベースエンジンは人間の脳味噌だけだ。あいまいで、正確さのかけらもなく、メモリも貧弱で遅い上にエラーが多く、すぐにハングアップするくせに、この概念のに枠組みを作ってやることだけは得意なんだよね(まあ、処理の仕方がまるで違うから単純に比べるのはナンセンスなんだけど)。そう、データマイニングも究極のところではAIと同じ。フレーム理論が効いてくる。
その保存方法はどうあれ、「記憶」と「データベース」の一番の違いは、データが平均化されていないこと。データベースの中はどこまでも平坦で、まるで鏡のようにまったいらな世界だ。もちろん傾斜をつけてあるDBだってあるけれど、傾いていようがひっくり返してあろうが、平坦なものは平坦。でも、個人の記憶野の中にある知識というのはもっとでこぼこしていて、ざらざらしたもののはず。
他人の取ったノートやメモを見たことがあるでしょう。おなじものを聞いた筈なのに書いてあることがぜんぜん違う。でも、(ちゃんと取ってあれば)そこから同じような答を引き出すことができる。知識というのは、たぶんそういう形をしている。誰もが使える知識なんていうのは、実はそうそうあるものじゃない。本当に重要なのはその知識の格納のしかたと引き出しかた。それから、その知識が他どう違っているのかのほうなんだ。
人の知識や認識というのは必ず歪んでいる。逆にいえば、その歪みこそが「知」というべきものであって、平均化された「知」はただのデータでしかない。その歪みを相対化し、歪みとして伝えることができれば、本当の意味で知の共有ができるんじゃないだろうか?
ぼくらのものの見方は不完全で歪んでいる。まずは、そこからスタートすべきだ。そして、きっとぼくの歪みとあなたの歪みは違う。それは喜ぶべきことであって、憂いたり、怒ったりすべきものじゃない。人は受け取った知識をどう扱ってもいい、そのことをもう一度考えてもいいんじゃないだろうか?ぼくらは、知識というものに対して自由であるということの責任と義務を、もう少し考えてもいいと思う。
ぼくらの知識は歪んでしまった。個人という殻の中で純粋培養されたものを知識と呼ぶことはもはや不可能だ。でも、ぼくたちはそれを喜んでいる。知は出会いながらさらに歪み、さらに先に進む。たぶん、それはデータのかたちではなく場の問題だ。
そう、これは“教育”の話だ。
last update Jan.31 2001
by isana kashiwai
isana.k [at] gmail.com