NECプレスリリース
http://www.nec.co.jp/japanese/today/newsrel/0009/0401.htmlようやく、出来るべきものが出来たという感じだ。
200ppiのモニターが販売されるというニュース。
いま、われわれが見ているモニターは72ppiぐらい
つまり1インチに72個の光る点が並んでいるわけだ。それが200個になる(大体、新聞ぐらいかな)
で、何が凄いかって言うと、同じサイズの液晶パネルならより多くの情報が詰めこめるって言うこと。具体的に言えば、たとえば、より小さな文字で表示させてもちゃんとと見えるとか、画像なんかの細かいところが、拡大しなくてもちゃんとみえるとか。
あまり凄くない?うーん。そうね。
たとえば、携帯電話の液晶、今大体あそこには100字も入らないけれど、ここに200字とか300字とか入るようになるかもしれない。PDAのモニタで文庫本の見開きぐらいの文章が読めるようになるかもしれない。(多分将来的な話)
ちょっと話を大げさにしてみようか。
かの有名なグーテンベルグさんが活版印刷を発明したことの一つの影響は、本が小さくなったことだった(いや、他にも山のようにあるんだけどね)。それまで、ヒトの手で写されていた本は、文字が大きくならざるを得なかったし、必然的に本のサイズも大きかった。まあ、新聞サイズを想像すればあながち間違っていないと思う。本は台の上に鎖で止められて、立った姿勢で朗読するものだった(この頃、まだ黙読なんていう習慣はなかったから)。
グーテンベルグさんの発明からしばらくたって(100年くらい)。印刷業者たちがあることに気づいた。活字で印刷するなら、文字はもっと小さくてもいい、紙はもっと薄くてもいい。で、本は小さくなった。持ち運びができて、簡単にしまえて、安い本(これを始めて作ったのはアルダス・マヌチウスさん、個人的にはグーテンベルクなみに偉いと思うんだけどね)。これは凄いことだった。
何が変わったかって、大げさに言えば、人の物の考え方を変えてしまった。
まず、本が個人で持てるようになった。つまり、読書が個人に属する体験になったわけ。黙読するという風習はココから生まれた。当然、読者という概念もそれまではなかった。本を読むことは本を写すことだったし、朗読するのを聞くことだった。本を読む人は本を写しコメントを加える人のこと。そして、本文を書く人とコメントを書く人のあいだに明確な切り分けはなかった。読者と、作者というきりわけはこれ以降のことだ。
それから、それまでは師匠の元で研鑚を積むのが「学問」だったのが、本を読む、本を書くことが「学問」に変わっていった。師匠の朗読する本を(もちろん師匠が書いたもの)、弟子は一生懸命写す、コメントを書き加える。そういうことが学問だった時代から、本を読む、沢山の思想に触れる(その時代の学問の流行を読む)、そのなかから自分の考えをおこしていく、というのが学問になった。思想も、流行もそれまではなかった言葉だ。
つい僕らはプラトンさんやアリストテレスさんたちが、一生懸命本を書いている(あるいは弟子に語って聞かせる)ところを想像してしまうけれど、それは今のスタイルになれている僕らの勝手な思い込みだ。彼等は、自分の考えをところかまわず喋り、議論をしていた。それで、満足だし、十分。それを後世に伝えようとか、形にして残しておこうとかそういう考えは、あんまりなかったはず(多分ね)。
僕らを文字中心の世界に引きずり込んだのは、文字の発明ではなくて、小さな本のほうだった。
ずいぶん長くなったけれど、この液晶技術は500年ぐらい前に世界を変えてしまった技術の先っぽのところにある。この技術が世界を変えるかどうかは分からないが、1ページに収まる文字の量が変わるだけでも世界は変わる。そういう想像をするのは、なかなかに楽しい。