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2001.07.05 久しぶりに、『読んだ/買った』 野本陽代、R.ウイリアムズ 『ハッブル望遠鏡が見た宇宙』 岩波新書, 1997.4 (bk1) 野本陽代『続・ハッブル望遠鏡が見た宇宙』岩波新書, 2000.9 (bk1) 美しい天体写真が沢山。その全てにちゃんと意味がある。そこで何が起きて、そういう姿になったのか、なぜそんな風にみえるのか。そのスケールの大きさにただひたすら呆然とする。脳内麻薬がたくさん出る。ああああ、きもちいいい。(なんか、やばいなこの文章) ハッブル望遠鏡をめぐるノンフィクションとして読んでもとても良い本 ペッカ・ヒマネン 『リナックスの革命』 河出書房新社, 2001.5 (bk1) 原題は"The Hacker Ethic" 実はLinuxの話はごく一部しか入っていない。騙されて買ったITおやぢがいいかげんに改心してくれることを望む。「Linuxはビジネスモデルじゃないんですよ」なんて、こんな恥ずかしいことをもう言わせないで欲しい。 フリーソフトもオープンソースも「金儲け? 勝手にやれば? 俺たち関係ないもんね、でも邪魔すんなよな」っていうのがメインストリームだと思うんだけどねえ。違うかな? Mike Gancarz 『UNIXという考え方 その設計思想と哲学』 オーム社, 2001.2 (bk1) コンピュータ書籍売り場に並んでいるが、本来ならば哲学書か宗教書の棚に並んでいてしかるべき。十戒がかかげられ、聖人たちが名を連ね、逸話と伝説に満ち、信者にしか分からない言葉で書かれた本。信者はそこに戒めと救いを見るにちがいない。でも、信者以外が読むと火をつけたくなるかも。 クリストファー・マクガワン 『恐竜解剖 動きと形のひみつ』 工作舎, 1998.7 (bk1) タイトル即買い。そのまんま。いきなり恐竜の骨にかかる応力の話から始まったりする。どきどきするね(え、しない?)。想像力がみしみしくるね(え、こない?)。 推理小説の「検死官」物が好きな人にはよろしいかと。ちなみに、表紙がとても良い。 レウ゛ィ・ストロース 『悲しき熱帯(上下)』 中公クラシックス, 2001.4/2001.5 (bk1)(bk1) 間違っても「リーバイス」と読まないように。往年の名著が新書になった(ちと高いけどね)、しかも川田訳の方である、めでたい(講談社学術文庫の『悲しき南回帰線』のほうは訳が悪くて読めたものじゃない)。 経験が哲学へと上りつめていく過程が、こんなにも美しく書いてある本は滅多にないと思う。ここから後の彼の哲学に照らして小難しいことを云々いうのは野暮というものだ。そんなものは哲学者に任せておけばいい。ぼくらは純粋に文学として浴びるようにこの本を読む。失われつつあるものに対して、なす術もなく立ち尽くす筆者の言葉は、ぞくぞくするくらい美しくて、どこまでも悲しい。 あー、最近ストーリーものを読んでないなあ。 |
2001.06.19 プライバシーの話をしよう。 どうもこの言葉は、ひとを過敏にさせるみたいだ。でも、プライバシーって何だ? 人に知られたくないもの、うん、それも一つの答えだろう。昨日の彼女との楽しい一夜、うんうん。おとといの恥ずかしい失敗、そーいうのもあるね。今朝のうんちのサイズ・・・。でも、こーいうものって、他人にとってはかなりどーでもいいことだ。あまりに個人的で他の不特定多数の人にはあんまり意味がない。そう、興味を示すのはきみの知りあいぐらい。あるいは、君が有名人なら話は別かもしれない(有名人は"知ってる人"が多いからね)。 じゃあ、あなたの住所や電話番号やクレジットカード番号はプライバシー? そう、こう書けば解るけど「それはプライバシーの侵害だ」っていう台詞にはある種の無責任さが感じられる気がするんだよね。 インターネットだから個人情報が漏洩するんじゃない。レンタルビデオの会員証や宅急便の発送票からだって個人情報は漏れる(レンタルビデオ店の収入の一つが名簿を売ることだっていうのは誰もが知ってるよね)。店先でクレジットカードを渡す、「少々お預かりさせていただきます」店員が店の奥に消える。そこで彼がカードのナンバーをメモしていないと誰がいえる? じつはちゃんと作りさえすれば、オンラインの取り引きのほうが安全なのかもしれないんだ。 個人情報は漏洩する可能性がある。そのリスクにちゃんと意識的になれるかどうかが問題なんだ。完全なセキュリティってのは存在しない。どんなに強固なセキュリティでも必ずアクセスルートがある。だってどんな金庫だって少なくとも1つは開ける方法があるんだから。鍵と暗証番号を持っていれば金庫は簡単に開けることができる。そのことを忘れるべきじゃない。リスクは下がりはしても決してゼロにはならない。 これまでは、個人から外へ出て行く情報は限られていた(そう思っていただけなんだけどね)。たいがいの個人情報は「何時、何処で、誰に渡したか」がはっきりしていた。いいかえるなら、情報のやりとりがちゃんとシチュエーション(状況)を持っていたといってもいい。そして、ぼくらはそのシチュエーションを読むことで、無意識に情報開示のリスクコントロールをしていた。 OAショップのカウンターで携帯電話の申し込みをするのは何の抵抗もないけれど、道端のアンケートに電話番号を書き込むのはかなり不安。逆にいえば、リスクを感じれば人はそのリターンを求める。道端の怪しいアンケートにはそれ相応の対価がないと答えられない。 ネットワークでの情報のやりとりにはシチュエーションがない(あるいは無いようにみえる)。のっぺりしたメールの文面や、きらびやかに飾りたてられたWEBサイトはどれも同じようにみえて、どれを信用すべきなのか分からない。その中でちゃんとリスクコントロールするのはとても難しい。まして、サイトにアクセスするだけで、メールを送るだけで、ある種の情報がサーバへと流れていく。 あなたがどんなにネット上でハンドルを使ったとしても、あなたが加入しているプロバイダはあなたが誰で、あなたが今日ネット上で何をしたか全部知っている。メールだって読めるし、チャットの中身だって筒抜け。あなたが送ったメールは、経由したサーバの数だけコピーがある。携帯電話はつねに自分の位置を基地局に送信している。サーバ上のメールを盗み見ることも、携帯電話を盗み聞きすることも、どちらもそれだけならば犯罪でもなんでもない。 こう考えよう、プライバシーっていうのは自分がどんな情報を人に見せているのかをちゃんと把握する権利のことだ。自分が何を発信しているのかを知ることができれば、それをコントロールするのは難しいことじゃない。 意識するしないに関らず、自分がいつどこでどんなペルソナを公共の場にさらしているのか、そのことについて僕らはあまりに無意識だったんじゃないだろうか? 日常生活にもセキュリティポリシーが必要なんだ。そして、そのポリシーを守るのは決して法律家やサーバ管理者の仕事じゃない。 自分のプライバシーをコントロールする。何を明らかにして何を秘するのか、誰に対して何を開示するのか。自分がある種の情報の発信源であることに自覚的になる。想像してみよう、たとえば、WEBサイトに本名を掲載することであなたが失い、そして得るものは何だろうか? |
2001.06.05 『Yes!!便所の落書き』宣言 「インターネットは空っぽの洞窟の中の便所の落書き」by eve (http://eve.adam.ne.jp) われわれは、ニュースソースの信憑性を保証しません。 われわれは、意見のオリジナリティを主張しません。 われわれは、情報の真偽についていかなる責任も取りません。 われわれは、自らの発信している情報がゴミ情報であると胸を張って主張します。 そう、真実はネット上にも、現実世界にも転がっていない。 真実を決めるのは、いつもそれを受け取る人々の責任なんだから。 「僕らは平坦な戦場に生きているんだ」(W.Gibson) さあ、同士達よ、疑いながら歩み、信じながら叫びなさい。 真実を語るのはわれわれの仕事ではないが、真実はわれわれの中にある。 このサイトに掲載されている情報は、 便所の落書き以上のものではありません。 Yes!!便所の落書き。 |
2001.05.22 久しぶりに、本の紹介 山田 満郎 『8時だョ!全員集合の作り方』 双葉社 ISBN:4-575-29204-4 (bk1) 往年の怪物番組「8時だョ!全員集合」の舞台美術を担当していた山田氏が同番組の裏方を明かした本。 普通の劇場の生の舞台で、二階家がいきなり崩れたり。屋根の上に本物の車が飛んで来たりするんだよ。 舞台関係者なら分かると思うけど、激しいコントの中で的確なタイミングで役者の頭の上に洗面器を落すのがどれくらい難しいか。役者の立つ位置、姿勢、セリフのタイミング、洗面器を落すタイミング。全てが一致しないと成功しない。それを毎週毎週やるんだから、それだけでもため息が出る。それなのにセットは崩れるは、人は飛ぶは、モノ落ちるわ・・・。凄すぎ。 あの番組を生で16年間毎週やってたってのは奇跡に近いと思う。もう2度とできないだろうなあ。 今まで読んだ舞台美術関連書の中では、間違いなく最も刺激的な本。 舞台関係者は必読、燃えます、勇気が沸いてきます。舞台美術屋は神棚に飾って毎日拝むように。 あの番組を見ていた人にもお薦め。写真見てるだけでも懐かしいです。 個人的には、次にザ・ベストテンの裏方本が出ることを希望。 |
2001.05.16 インターネットの悪いほうのイメージの一つに「匿名で誹謗中傷やりたい放題の無法地帯」ってのがある。まあ、確かにそうなんだけど。でも、マスコミが繰り返しているバッシングとか論争を見るにつけ、ネットのほうがまだましに見えるんだよね。 こういうときに必ず引き合いに出される匿名掲示板の最大手である2ch(http://www.2ch.net)なんかを見ていると、確かに見るにたえない誹謗中傷が山のように書き込まれていたりするんだけど、よく見るとちゃんと"自浄作用"みたいなのが働いてる。たいがいそれは一般社会で取られていた諭すとか怒るとかじゃなくて、無視するとか茶化すとかアンチテーゼを出すみたいなやり方でクリアされていたりする。 こまったことに、マスコミにはこの自浄作用がない。というか、自浄の必要がないかの用に扱われる。マスコミに乗せられている情報はまるでそれが唯一の真実であるかのように語られてしまうわけだ。まあ、これは新聞やテレビみたいな1対多のメディアの宿命だからしかたないんだけどね。 件の掲示板をを称して「便所の落書き」と言い放ったニュースキャスターがいたけれど、あれはある意味で的を得ていた。でも、重要なのは「実は彼が出ているTVのニュースもその落書き以上のものじゃないんじゃないか」っていう認識のほうだ。 インターネットによって山のようなゴミ情報が人目にさらされることで、「事実」というものが相対的なものでしかないこと、知識と呼ばれているものの大半が実は単なる消費の対象でしかないことがはっきりと露呈する。 「知る権利」にはその代償として支払わなくてはならない「義務」がある。 意識的にしろ、無意識にしろネット中毒者たちはもうそのことに気づいている。「事実」には沢山の形があって、最後のところでどの事実を採用するかはあなたが決めなければいけない。怒ったり嘆いたりするまえに、開き直ってそれを楽しむことができれば、もう少し違うものが見えるかもしれない。 |
2001.05.02 いま、僕の右手の薬指にちいさなタコがある。 それに触れては、それがまだそこにあることを確かめて、 なぜかぼくは、なんとなく安心する。 これは、なぐりを握ってできたもの。 親指のつけねと薬指の第二関節、それに小指。 慣れるとなぐりを振るのにこの部分しか使わなくなる。 あとの指はほとんどそえているだけ。 薬指と親指のつけねでなぐりの柄を軽く握る。 手の中で自由に動くように、薬指の第二関節をシーソーの支点のように使う。 腕の力ではなく、なぐりの重さと手首のスナップを使って振り降ろし、 インパクトの瞬間、小指を締めて頭がぶれないように安定させる。 このやり方が釘を打つのにいちばん力を使わない。 慣れないうちは、ついなぐりを握り締め、腕の力で振り降ろしてしまって、 人差指と中指の付け根が擦り切れて、腕が筋肉痛でぱんぱんになる。 ぼくが舞台美術として参加している 劇団Angel Engineは数ヵ月に一度公演を行なう。 そのたびに、僕の手はぼろぼろになるのだ。 工具を使い、材木だのベニヤだのをあつかい、塗料やステインにさらされ、 舞台が終る頃には、傷だのささくれだのが山のようにでき、 取れなくなった塗料で汚れ、指先はすりきれてつるつるになっている。 本当はしたほうがいいのだけれど、ぼくは軍手が好きではない。 正確さがとか、微妙な感覚がとかいう理由があるわけではない。 どちらかというと、うっとうしいとか、めんどくさいとか、 そんな理由じゃないかと思う。要は横着の部類だ。 一時期、本気で試した事もあったが、 どうにも耐えられなくてやめてしまった。 しかし、プロフェッショナルならともかく、 Angel以外ほとんど舞台の仕事をしない僕の手は、 舞台がはねると、ゆっくりと回復していく。 傷が治り、徐々に痺れていた皮膚の感覚が戻る。 指先の皮がぽろぽろ剥がれて、新しくなっていく。 そして最後に、この薬指の硬くなった皮膚が残るのだ。 その頃には、もう芝居の熱もすっかりさめて、 あのお祭の日々は日常の中に融けている。 そしてぼくは、まだそれがそこにあることを確認して、 懐かしむでもなく、憂うでもなく、ただなんとなく安心するのだ。 そのへんが、ぼくが芝居をやめられない理由なのかも知れない。 この薬指がもとに戻る頃、 次の舞台の準備が始まるはずだ。 ちょっとわくわくしながら、ちょっと不安になりながら、 僕はそれを、待っている。 |
2001.04.27 あらためて、断っておくけれど。私の名前(柏井勇魚)は本名です。 ペンネームでも、ハンドル名でも、芸名でもございません。ちなみに読み方は「いさな」です。 つーか「失礼なのはお前だ」 (- -# 凸 まあね、生まれてこの方初めて会う人に「珍しいお名前ですね」といわれなかったことはないし、電話口で「えーと、確か珍しいお名前の方だったんですが」「・・・私でしょうか?」とか、2回目の打合せで、面と向かって「えー・・・、魚?」とか言われたこともあるけどね。 でも、生まれてこの方自分の名前を嫌だと思ったことは覚えているかぎり一度もないぞ。 私の名前の由来は、メルビル『白鯨』の新潮文庫版に登場する「勇魚亭」という飲み屋の名前。親父が海洋学者だからというのはもっともな理由だけれど、どちらかというと海洋冒険小説ファンの子供だから、というほうが正確な気がする。 C.W.ニコルの同名小説があるが、私のほうが(いや、親父がというべきか)先である。 もともと、勇魚って言うのは鯨の古語。「勇魚取り」で海・浜・灘にかかる枕詞にもなってる。 勇魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許為 海者潮干而 山者枯為礼 (勇魚取り、海や死にする、山や死にする、死ぬれこそ、海は潮干て、山は枯れすれ ) 詠み人知らず 万葉集巻の十六 ちなみに磯魚とかいても「いさな」と読むのはちょっと内緒にしたい(ここに書いたらおんなじやね)。 |
2001.04.16 リチャード・ドーキンス『虹の解体』早川書房 ISBN:4-15-208341-7 ドーキンスが「科学のロマン」についてかなり真剣に論じた本。とても面白かった。でも、彼にしてもここまで言わなきゃいけないんだねえ、ちょっと悲痛な感じさえするなあ。あの、ドーキンス節が嫌いじゃなければとってもお勧め。 そう、科学や技術や学問っていうのは、もっとカッコよかったり、ロマンチックだったり魅力的だったりするはずなんだ。儲かるだけがサイエンスじゃない。そう見えないのは、何が悪いんだろう?自分がそれをどうにかできるとは思わないが、そういう視点は忘れないでいたい。ま、そういうの好きだしね。 科学や技術の「せんすおぶわんだあ」をどうやって語ればいいのか。この本を読んだからというわけじゃないけれど、最近かなり気になっている。宇宙ステーションのニュースを読んでどきどきする。家に帰る道々夜空を眺めてみる。そーいうことの楽しさや美しさはどうやって語ればいいんだろう?アカデミズムとは対極にある楽しさ。これはたぶん想像力の遊びなんだ。 系統立っている必要はまったくない、科学や技術は必然的に連鎖していくものだから。重要なのはその連鎖をどこで止めておくか。どうやらニュースを表面的に触るだけではダメみたいだし、だからといってマニアックでもダメ。あくまで中途半端に野次馬根性で、でも最後のフックをどこか別の場所へ引っ掛けておく必要がある。たとえば、帰り道の夜空。 さらにいえば、これは科学や技術に限った話じゃない、歴史だって経済だって同じ。知識をつかう一番簡単で一番楽しい方法は想像力の上で遊ぶことのはず。誤解を恐れずにいえば、知識は必ずしも役に立つ必要なんかない。面白いとか、かっこいいとか、美しいとかそーいうことで充分じゃないだろうか? 『Junkyard Review』 はそういうことがやってみたくて、もそもそと続けているんだけど・・・どーにかならんもんかなあ。 |
2001.03.26 つい先日、未来の私に借金をして自転車を買った。 10年越しで乗っていたMTBがとうとう走れなくなってしまったので、しばらく歩いていたのだが、とうとう耐えられなくなって買ってしまった。かなり真剣に中免を取ってバイクにしようかとも思ったのだが、「ここで自動二輪にしたらもう2度と自転車は買わないだろう」という冷静かつあまり意味のない判断から、もう一度自転車を買うことにした。 何しろ中免と引き換えである。人生最後の(いやたぶんこれは嘘だろう)自転車である。そうでなくても、かつて「勇魚は自転車とセットで1人分」といわれていた私である(それは誉め言葉じゃないぞ)。パンクを2分で・・・もういいって。 予算はちょうど中免が取れるくらい(退路を断つためにはこれぐらいしないと)。実用性は二の次にしてとにかく「遊べる」ことを目的に選ぶ(具体的には「飛ぶ・跳ねる・落ちる」おい、走るはどこよ?)。カタログと戯れる蜜月の日々を過ごし、仕事の合間を縫って都内の自転車屋を巡り・・・。 結局選んだのは、KONAというハワイのメーカーの「HoniHoni」 ↓これに似てる(日本限定なのでカタログには無い。これを黒くして、パーツのグレードを下げたもの) http://www.konaworld.com/2k1/big_stinky.jpg 決定打となったのは、「名前」(いやそれだけじゃないんだけどね)。なにしろ『ほにほに』だもの、ほにほに(ちなみに、HoniHoniはハワイ語でKissのこと)。 で、以来、仕事帰りにチャリで跳ねまわる日々が続いている。いや、楽しいわ、やっぱり。 |
2001.03.24 最終更新、1月とかだし・・・。 裏庭の手入れにかまけていて、表庭が荒れ放題。 ということで、表庭と裏庭の統合を始めます。 とりあえず、日記の更新を再開しよう。そうしよう(禁煙と同じだなこりゃ)。 |
2001.01.10 自分をこの世界につなぎ止めておくために、僕らには物語が必要なんだ。それはたぶん、いまでも変わらない。その昔、ほんの少し前まで、物語はたった一つだった。とても分かりやすく、単純な物語。やがて、物語は壊れ、分裂し、バラバラになって消えた。いま、ぼくらの目の前にあるのは限りない断片の集積。まるで雪のようにふりつもる無数の他愛のないエピソードたち。そのすきまをすり抜けるように、僕らは歩いて行く。 たとえば、人の感情というのは、連鎖的に引き出される記憶の断片にすぎないんじゃないか、そう思ったことはないだろうか? よく思い出してほしい、悲しいとか、うれしいとか、そんなものは、あとから君がつけ足した物語に乗っかっていたりしないだろうか。その時、その瞬間、きみは悲しみと呼べるほどはっきりとした感情を抱いていただろうか? よく思い出してみよう、僕らの記憶はそんなに理路整然としているだろうか? 僕らの見ているもの、僕らの聞いているものはそんなにはっきりとした姿をしているだろうか。そうだ、かげろうのように揺らめく、曖昧であやふやな世界に僕らは住んでいる。思い出されるのはいつも断片的な世界のかけらでしかない。そのすき間を言葉で埋めながら、仮の物語を常に作り続けながら、僕らは生きている。 Happy New Century. |